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広島平和記念館② 千羽鶴 [中国・四国]

今日は原爆による悲しいお話。

多くの悲しい出来事がありますが、

その中の代表的なものです。

広島の平和公園=千羽鶴

というイメージがあると思いますが、

その元になったお話しです。

平和記念資料館に立ち寄った際に

広島TVが取材に来られてました。

外国の先生たちが来館して説明を聞かれていた

ところで、ある話を後ろで聞かせてもらいました。

自然と涙があふれて頬をつたわっていきました。

自分でもビックリしたくらいです。。。


原爆が落ちた1945年8月6日

爆心地より1.7kmに住んでいた

理髪店の家族も被爆しました。

その中に、佐々木禎子さんという

2歳の女の子がいました。

家で食事をしていた時で家の壁が崩れて

吹き飛ばされるも怪我もなく無事でした。

壊れた家から逃げ出している時、

空から黒い雨が降ってきました。

黒い雨は、原爆炸裂時の泥やほこりが

混ざった物で大量の放射能も含まれていた。

それが二次的被爆となり多くの人々に

悪影響を及ぼしていくことになったのです。。。


1954年秋

原爆投下から10年近く経ち、広島のまちも

人々も落ち着きを取り戻してきました。

禎子さんは被爆したものの元気に成長し

小学校6年生になりました。

クラスでもずば抜けて運動ができる少女で、

50mを7.5秒で走ったそうです。

秋の運動会のリレーでも活躍し優勝もして

将来は体育の先生になるのが夢でした。

そんな運動会の後、風邪をひいたのですが

治りが悪く首にシコリが出来始めたのです。

シコリは消える事もなく年が開けた1955年には

顔が腫れて見えるようになってしまいました。


1955年2月

検査の結果、白血病とわかりました。

医師はお父さんに「もって1年でしょう」と

告げたのです。。。

禎子さんは広島赤十字病院で入院する事に。

禎子さん自身は白血病の事は知りません。

その年の5月に同じ病院に入院していた

5歳の子が白血病で亡くなりました。

「わたしもあのように死ぬんだろうか。。。」

禎子さんはポツリと口にしました。

もしかしたら気付いていたのかもしれませんが、

一切口に出さなかったようです。

12歳で死の恐怖と戦っていたのです。。。


1955年8月

名古屋の高校生から入院患者のお見舞いとして

千羽鶴が送られてきました。

禎子さんの病室にも届けられました。

禎子さんが千羽鶴を折るようになったのは

この頃からです。

病院で入院している人たちも折り始めました。

「鶴を千羽折ると願いが叶う」という言い伝えを聞き

「元気になりたい」という願いをこめて

折り続けました。

折った数は千羽を越えましたが、

もう1000羽折るわと折りつづけました。

折り紙は当時高価な物だったので

薬の包み紙などでも折ったそうです。

折り鶴の大きさはどんどん小さくなり、

針を使って折るようになっていきました。

小さければ願いも早く叶うと折り続けました。

禎子さんは、

痛い辛いを口に出した事がありません。

小さい鶴を折ることに集中する事で痛みなどから

逃れようとしていたのかもしれません。。。

禎子さんが折った鶴が展示されていました。


 
治療は点滴などありますがとても高価でした。

1回の点滴費用は、理髪店のお父さんが
 
5人分をカットする費用とほぼ同じだったようです。

なので満足な治療が出来たわけではありません。

リンゴを切ってあげても口で噛む力が
 
無くなくなっていったそうです。

それでも痛いだのといった事は口にも出さず、
 
周りの人を気遣っていたそうです。

禎子さんは自分で白血病であり、
 
死んでしまうだろうと知っていました。

入院中に本などを見て自分で調べたようです。

禎子さんの日記にあった入院中に自分の
 
白血球などの数値を書き写したものです。
 
 


1955年10月25日

運動会リレーで優勝して1年が経った日の朝、

とうとう禎子さんは天国へ旅立ちました。

家族に見守られながら

12年という短い命が閉じられたのでした。


禎子さんの死後

同じクラスの友達の中にも

被爆した子も沢山いました。

「お墓を近くにたてれたら毎日お参りに行ける」 

「禎子さんだけじゃなく原爆で被害のあった

子たちの為に何かしたい」

「平和公園に像を造れないだろうか?」

「いくらかかるんだろう」・・・

子供達は募金を開始しました。

みんなの訴えは全国へと広がり

全国の3000を超える学校から

手紙と募金が集まりました。

1957年、平和記念公園に「原爆の子の像」 が

建てられることが決まりました。



像の上に両手を広げて鶴を掲げるのは

佐々木禎子さんです。

像のそばに置かれた石碑には

「ふたたび原爆によって子供達が犠牲に

ならないように」といった

気持ちが刻まれています。



これはぼくらの叫びです

これは私たちの祈りです

世界に平和を気づくための



千羽鶴も禎子さんの思いをつなげていくために

全国より集まってきました。

平和記念公園に飾られている千羽鶴も

こうして送られたり持ってこられた折鶴です。

参考:広島平和記念資料館冊子・HP



長くなってしまいましたが、

何か少しでも伝わればと思っています。

百聞は一見にしかず・・・

是非行かれて見て感じてください。。。


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コメント 9

あっきっき

実家の庭には不発の焼夷弾が埋まっていると言われております
何年か前に探したけど見つかりませんでしたが、無くなった祖父が
目の前にドスって落ちてきたのを生々と語っておりました
この焼夷弾が破裂していたら今の実家は無かったと思います
その何倍もの威力がある原爆・・・人のする事ではないと思います
by あっきっき (2009-07-29 09:12) 

セシル❤

(ノ_<。)うっうっうっ・・・
by セシル❤ (2009-07-29 11:22) 

★まいまい☆

(=艸=。)ウゥ・・。・゚(>艸<。)゚・。うえぇえぇん!!
言葉がでてきません・・
by ★まいまい☆ (2009-07-29 17:42) 

ながぼ♪

あっきっきさん>目の前に落ちてきたってのは生々しい。
          戦争とはいえ人は恐ろしい物を簡単に作ってしまいますね。

セシルさん>僕もそうでした。

まいまい>僕も資料館で言葉なくしました。
       やはり伝えておきたいと思って書きました。
by ながぼ♪ (2009-07-30 00:37) 

セシル❤

最近の大学生は、第二次大戦で日本の戦争参戦が有ったのを知らない学生が居るんだそうです。
広島・長崎を中学生までに学校で連れて行くことが必要かも。
by セシル❤ (2009-07-30 23:04) 

さっちー

原爆が落ちてからまだ64年しかたってないんですもんね…
白血病になるって初めて知りました(´ДÅ)ょゎょゎ
TVで原爆ドームの事を見て日本人としては絶対1度は行って目で実際にあったことを
体感しないといけないなぁって思いました。
だから今1番行きたい所は原爆ドームなんです。。。
by さっちー (2009-07-31 22:21) 

ながぼ♪

セシルさん>修学旅行で長崎や広島ってのは少ないですもんね。
        海外に行くのが多いですが、自国の歴史を見直すのは必要ですよね。

さっちーさん>何ともいえない気分になりますが、知っておく事が大切だと思うんだ。
         是非行かれると良いと思います。
by ながぼ♪ (2009-08-01 18:29) 

人魚姫

初めまして。
私も12月に広島へ行き,ここを訪れました。
せっかく行ったのに,何だかあまりうまく撮影できなくて。
ここであらためて拝見させて頂くことができ,
嬉しく存じます。
ありがとうございました。
by 人魚姫 (2010-02-09 21:18) 

人魚姫

書き忘れました。
私は「窮状の九条」という記事で戦争のことに触れました。
その文中の語句から,ここへ伺いました。
またお邪魔させて下さい。
by 人魚姫 (2010-02-09 21:32) 

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