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岩国:しろへび [中国・四国]

ど~も ながぼ です。

岩国城の後に書こうとしてた記事を忘れてた。

今日はそのお話。

岩国城へ行くロープウェイ乗り場前に

天然記念物を見られる場所があります。


幸運を呼ぶというシロヘビを見られる場所。

入り口前のベンチには
 
白い猫が大また開いてましたよ^^;


シロヘビ:

長さ180cm、胴回り15cmあまり。
 
目は真っ赤で全身は白く光沢があります。

江戸時代に発見された記述があるそうです。

シロヘビは、
 
アオダイショウが突然変異によって白化したもの。

白化現象は一代で終わるのが普通ですが、
 
岩国のシロヘビのみ自然界で累代繁殖しています。

これは神の使いとして崇められ大切にされてきた
 
からだと考えられているそうです。

捕獲や飼育される場所は各地にあるが
 
自然繁殖し生息しているのは岩国錦帯橋付近のみ。

そのため岩国のシロヘビのみが
 
天然記念物に指定されています。

現在はエサとなるネズミなどの減少等、
 
環境変化で約800匹程度に減ってきているようです。
 
 

 
シロヘビはとても珍しく
 
昔より神の使いと崇められました。

人頭蛇身の弁才(財)天の使いとして
 
富をもたらすものとして信仰対象になっています。

そう思うとありがたく感じてお願いしちゃいました。

サマージャンボの期間だしね^^


この観覧所には花も咲いており、
 
黒アゲハが飛んできてたので(-p■)q☆パシャッ☆

白ヘビ、白ネコ、黒アゲハ・・・
 
相反する白と黒が幸運の兆しとなりますように。

 


 

ここで、岩国の名物をひとつ。

岩国寿司です。

岩国城主が保存運搬に便利な食べ物をと
 
作らせた事から殿様寿司とも言われている。

岩国の冠婚葬祭には欠かせない郷土料理。



簡単に言えばチラシ寿司の押し寿司といった感じ。

味は良く言えば薄味で殿様寿司ってのも納得。

悪く言えば酢が薄い。

酢飯好きな人には物足りないかもね。

次回は、同期の桜で有名な兵学校江田島をご紹介。

続いて、呉観光に広島球場と続きます。


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広島平和記念館② 千羽鶴 [中国・四国]

今日は原爆による悲しいお話。

多くの悲しい出来事がありますが、

その中の代表的なものです。

広島の平和公園=千羽鶴

というイメージがあると思いますが、

その元になったお話しです。

平和記念資料館に立ち寄った際に

広島TVが取材に来られてました。

外国の先生たちが来館して説明を聞かれていた

ところで、ある話を後ろで聞かせてもらいました。

自然と涙があふれて頬をつたわっていきました。

自分でもビックリしたくらいです。。。


原爆が落ちた1945年8月6日

爆心地より1.7kmに住んでいた

理髪店の家族も被爆しました。

その中に、佐々木禎子さんという

2歳の女の子がいました。

家で食事をしていた時で家の壁が崩れて

吹き飛ばされるも怪我もなく無事でした。

壊れた家から逃げ出している時、

空から黒い雨が降ってきました。

黒い雨は、原爆炸裂時の泥やほこりが

混ざった物で大量の放射能も含まれていた。

それが二次的被爆となり多くの人々に

悪影響を及ぼしていくことになったのです。。。


1954年秋

原爆投下から10年近く経ち、広島のまちも

人々も落ち着きを取り戻してきました。

禎子さんは被爆したものの元気に成長し

小学校6年生になりました。

クラスでもずば抜けて運動ができる少女で、

50mを7.5秒で走ったそうです。

秋の運動会のリレーでも活躍し優勝もして

将来は体育の先生になるのが夢でした。

そんな運動会の後、風邪をひいたのですが

治りが悪く首にシコリが出来始めたのです。

シコリは消える事もなく年が開けた1955年には

顔が腫れて見えるようになってしまいました。


1955年2月

検査の結果、白血病とわかりました。

医師はお父さんに「もって1年でしょう」と

告げたのです。。。

禎子さんは広島赤十字病院で入院する事に。

禎子さん自身は白血病の事は知りません。

その年の5月に同じ病院に入院していた

5歳の子が白血病で亡くなりました。

「わたしもあのように死ぬんだろうか。。。」

禎子さんはポツリと口にしました。

もしかしたら気付いていたのかもしれませんが、

一切口に出さなかったようです。

12歳で死の恐怖と戦っていたのです。。。


1955年8月

名古屋の高校生から入院患者のお見舞いとして

千羽鶴が送られてきました。

禎子さんの病室にも届けられました。

禎子さんが千羽鶴を折るようになったのは

この頃からです。

病院で入院している人たちも折り始めました。

「鶴を千羽折ると願いが叶う」という言い伝えを聞き

「元気になりたい」という願いをこめて

折り続けました。

折った数は千羽を越えましたが、

もう1000羽折るわと折りつづけました。

折り紙は当時高価な物だったので

薬の包み紙などでも折ったそうです。

折り鶴の大きさはどんどん小さくなり、

針を使って折るようになっていきました。

小さければ願いも早く叶うと折り続けました。

禎子さんは、

痛い辛いを口に出した事がありません。

小さい鶴を折ることに集中する事で痛みなどから

逃れようとしていたのかもしれません。。。

禎子さんが折った鶴が展示されていました。


 
治療は点滴などありますがとても高価でした。

1回の点滴費用は、理髪店のお父さんが
 
5人分をカットする費用とほぼ同じだったようです。

なので満足な治療が出来たわけではありません。

リンゴを切ってあげても口で噛む力が
 
無くなくなっていったそうです。

それでも痛いだのといった事は口にも出さず、
 
周りの人を気遣っていたそうです。

禎子さんは自分で白血病であり、
 
死んでしまうだろうと知っていました。

入院中に本などを見て自分で調べたようです。

禎子さんの日記にあった入院中に自分の
 
白血球などの数値を書き写したものです。
 
 


1955年10月25日

運動会リレーで優勝して1年が経った日の朝、

とうとう禎子さんは天国へ旅立ちました。

家族に見守られながら

12年という短い命が閉じられたのでした。


禎子さんの死後

同じクラスの友達の中にも

被爆した子も沢山いました。

「お墓を近くにたてれたら毎日お参りに行ける」 

「禎子さんだけじゃなく原爆で被害のあった

子たちの為に何かしたい」

「平和公園に像を造れないだろうか?」

「いくらかかるんだろう」・・・

子供達は募金を開始しました。

みんなの訴えは全国へと広がり

全国の3000を超える学校から

手紙と募金が集まりました。

1957年、平和記念公園に「原爆の子の像」 が

建てられることが決まりました。



像の上に両手を広げて鶴を掲げるのは

佐々木禎子さんです。

像のそばに置かれた石碑には

「ふたたび原爆によって子供達が犠牲に

ならないように」といった

気持ちが刻まれています。



これはぼくらの叫びです

これは私たちの祈りです

世界に平和を気づくための



千羽鶴も禎子さんの思いをつなげていくために

全国より集まってきました。

平和記念公園に飾られている千羽鶴も

こうして送られたり持ってこられた折鶴です。

参考:広島平和記念資料館冊子・HP



長くなってしまいましたが、

何か少しでも伝わればと思っています。

百聞は一見にしかず・・・

是非行かれて見て感じてください。。。


広島平和記念資料館① [中国・四国]

今回は広島記念資料館。

写真は全て記念館に展示してある物です。

長崎の資料館よりも目に飛び込んできて

何とも言えない気分になります。

 

昭和20年8月6日未明・・・

原爆を積んだ米軍爆撃機B29「エノラ・ゲイ」は

日本へ向けて出発。

原爆威力の把握もあり、原爆威力を記録する

科学観察機と写真撮影機の2機も同行。


午前8時9分・・・

広島・小倉・長崎の目標のうち、

第一目標である広島市上空に到着。

この日の広島は、

暑い日差しの照りつける晴天でありました。

投下目標地点は、

広島市中心部のT字型に見える相生橋。


 
午前8時15分17秒

エノラゲイを離れた原爆は、
 
相生橋の東南約300mにある島病院の
 
上空約600mで炸裂!

ピカ!と光った次の瞬間、ドン!という
 
衝撃と爆風が一瞬のうちに起こりました。

爆心地から1km範囲の耐震設計の
 
鉄筋コンクリート建築物以外は全壊。

2km離れた場所でも木造建物は全壊。

当時、広島市には34万人余の人たちが。。。

爆心地から1.2km範囲では
 
当日中に50%死亡、
 
同年12月までに14万人が死亡と推測。


 
廃墟となった広島

原爆落下地点は、原爆ドームより左後方の
 
三叉路から左手前に戻った場所です。 

右手後方の三角州、今は平和記念公園です。


 
原爆が炸裂した時間で止まっている腕時計


 
爆心地より2270m、
 
8月6日午前11時頃

被爆直後の実際の写真です。


 
爆風で家屋倒壊もあった2km付近ですので、
 
靴は無くとも衣類は着ておられます。

爆心地ではこの世の終わりの風景が
 
広がっていました。。。

原爆炸裂後の地表温度は3-4000度、
 
屋外にいた人は全身の皮膚が炭化、

細胞組織の水分が蒸発して
 
「水気のない黒焦げの遺骸」 が道路に多数。。。

爆心地を通過していた路面電車は
 
炎上したまま黒焦げの死骸を乗せて
 
惰性でしばらく走り続ける。
 
車内にはつり革を手で持ったままの人、
 
運転台でコントローラーを持ったままの運転士も。
 

 
想像を絶する被害の説明だけでなく、
 
ケロイド状に火傷を負った人の写真もあります。

そして、
 
被爆して原型をほとんど残していない
 
遺品なども遺族より提供されています。


 




原爆投下予定地は日本全国にあったようです。

距離的問題から東京より西側で

長崎までの17都市が候補。

東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、

大阪市、京都市、神戸市、呉市、広島市、

山口市、下関市、八幡市、小倉市、福岡市、

福岡市、佐世保市、長崎市。

この中ですでに空爆で崩壊した都市が除かれ、

歴史建造物が多い京都市も外された。

軍需工場があり周囲に民家が広がっている

地域に絞られていきます。

1945年5月には、広島・小倉・長崎に

最終候補地が決められた。

この都市への空爆は禁止、

原爆投下の事前警告は行わない事も決定。

これは原爆資料を把握するために空爆した後では

正確な資料が作れないからです。

人はこうも恐ろしくなれるものなんですね。

アメリカでも原子力は平和利用のためであって

兵器としての使用開発はすべきでないといった

科学者や直接担当者もいたようです。

大統領側近や将軍などの軍内部でも反対の声は

多くあがり阻止への動きもあったようですが、

戦争状況や国益などがこの声を無視して

悪魔的な行為へと加速していきました。。。

 

写真載せて記事書いていると

思い出して涙が出そうになります。

実際に見ると写真以上に衝撃を受けますし、

自然に涙が流れますよ。

被爆当時に異常が見られなくても数年や

10年後にガンや白血病が発症していきました。

次回はそのお話しをしていきます。。。


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趣味のカメラで撮った風景、フォト紀行、グルメ?。。。気まぐれ日記です。

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